カウンセラーのプロフィール
初めまして。
発達障害(ASD、ADHD)とアダルトチルドレン専門カウンセラー、宮田 守(みやた まもる)です。
私は社会に出てから10年、発達障害(アスペルガーとADHD)とアダルトチルドレンの問題に悩まされる日々を送ってきました。
ひきこもり、リストラ、対人不安、うつ病、発達障害の二次障害などを経験。
その後、心理学・カウンセリングをとおして、発達障害の生きづらさ・アダルトチルドレンの問題を克服することができました。
現在は、兼ねてより学んでいた心理学・NLP・独自の発達障害の活かし方を用い、同じように悩み・苦しむクライアントの問題を改善するべく活動しております。
もともとASD、ADHDという発達障害、アダルトチルドレンの『生きづらさ』抱えていた僕が、なぜカウンセラーになったのか?
その経緯をまとめています。
よかったら、下記の詳しいプロフィールもご覧ください。
悩み相談はカウンセラーとの相性が大切
カウンセリングを受ける場合には、あなたと僕との相性がとても大切になってきます。
「相性が悪いな」「ぜんぜん信頼できない」と思いながら、カウンセリングを試されてもなかなか改善には向かいません。
ですので、以下に、僕のプロフィールや経歴をすべて書き上げています。
正直、書きたくなかった経験や恥ずかしい失敗も、さらけ出しています。
僕がどのように悩み、どのような経緯で改善しカウンセラーになったのか、興味のある方はぜひご覧くださいね。
周りの期待に応えつづける子ども時代
僕の子ども時代は、親や周りの友人の期待に応えることに必死でした。
誰かから認めてもらうことでしか、自分の存在価値を感じれなかったのです。
小学校では、みんなの期待に応えたいと「優しい」自分を演じていました。
自分は、みんなから受け入れてもらえているんだ。
そんな実感だけが、自分を支える安心感でした。
しかし、裏を返せば、人に合わせないと自分は嫌われると思い込んでいたのです。
自分に自信がなかったのです。
親に怒鳴られ、否定されながら育つ
なぜ、そのように自信がなかったのか?
それは、家の環境も少なからず関係しています。
僕の育った環境では、家の絶対ルールがありました。
つまり、無条件では家に居させてもらえなかったのです。
その絶対ルールとは、『親の言うことは絶対である』という家のルールでした。
そのため、少しでも親の意に反する言動をすると、
- 今すぐ家から出ていけ!
- もう飯も食べるな!
と、怒り狂う親でした。
時には、手が出てくることもありました。
親の思うように子供を『コントロールしたい』『支配したい』という欲求が強く、力で抑えつけるような親でした。
それでも、『親に認めてもらいたい』と思い、親の期待に応えることに必死な子ども時代です。
今思えば、親の言うことは何でも言うことをきく、いわゆる『いい子』だったと思います。
ゆがんだ『思い込み』が、生きづらさに
しかし、そんな存在を否定される言い方をされるうちに、ある強い思い込みを持つようになりました。
それは、
- 僕は、どうせ否定される
- 条件付きでしか認めてもらえない
という、強烈な思い込みです。
この強い思い込みは、やがて発達障害(ASD)の特性により、後々こだわりへと変わってしまいます。
この幼いころに身に付けてしまった『無意識の思い込み』は、成人してからも生きづらさを抱えることにつながってしまいます。
当時はそんな思い込みを身に付けていただなんて、まったく気付いていませんでした。
『親に認めてもらいたい』
『親に受け入れてもらいたい』
その一心で、親が求める活動や勉強、スポーツなどを必死にこなしていました。
この頃から、僕はアダルトチルドレンの気質をもつようになっていったように思います。
【20代】アダルトチルドレンと発達障害、二重の生きづらさを経験
特に20代は、アダルトチルドレンと発達障害(ASD・ADHD)の特性により、二重に苦しんだ時期でした。
まず、アダルトチルドレン気質により、特に承認欲求に支配されていました。
他人から、
- 受け入れてほしい
- 認めてもらいたい
そんな考えが、とても強かったです。
その根底にあったのは、『自分は否定される。どうせ誰からも認めてもらえない』という思い込みです。
またその思い込みは、発達障害(ASD)の特性により、『こだわり』へと変わってしまいます。
自分はダメ人間だ、無価値な人間だという考えに執着するようになってしまったのです。
自信をもてず、会う人に対しては、常に笑顔で『良い人』を演じていました。
でも内心では、
- なぜ笑っているのだろう?
- みんな何が楽しいのだろう?
表情と感情のズレが大きく、アダルトチルドレン気質により、自分がなぜ笑っているのかよく分からない。
さらに、発達障害の特性から、コミュニケーションが上手く取れない。
ネガティブなグルグル思考をくり返す。
ますます自分がわからなくなり、20代は混乱していた時期でした。
思い込みが『こだわり』に変わった大学時代
無条件では受け入れてもらえないという思い込みを抱えたまま、中学・高校と進学・卒業します。
今思えば、発達障害の特性もありましたが、周りの環境にも恵まれ、何とか苦手なチームワークや部活動をこなすこともできたのです。
しかし、大学生になった頃、発達障害(ASD)の特性が強く出るようになり、うつ傾向をもつようになります。
大学のころから、
自分はどうせ、認めてもらえない存在だ
という思い込みが強くなってしまい、ひきこもがちになりました。
なぜなら、大学では認めてもらえる友人が一人もいなかったからです。
大学で友達を作ろうにも、どうやってコミュニケーションをとったらいいのか分からない。
それまで、周りからの承認だけが自分の存在価値だと思い込んでいた私は、
- 自分には存在価値がない
- 自分の存在に対する罪悪感
という、よく分からないこだわりを持つようになってしまったのです。
こだわりを持ってしまうのも発達障害の特性のひとつです。
それからは、グルグル自分責めの毎日が始まりました。
- 自分はダメな人間だ
- 自分は生きてる価値がない
そんな風に考えれば、考えるほど、深い劣等感を大きくしてしまいました。
今思えば、発達障害(ASD)の特性が大きく出ていた時期だと思います。
そのため、大学に行こうと電車に乗ると、
- 吐き気が止まらない
- パニックになる
しだいに無気力になり、大学も休みがちに。
今思えば、完全にうつ状態だったと思います。
しかし、私は当時『うつ病』という言葉すら、あまりよく分かっておらず、ただただ家に引きこもる毎日でした。
依存的になり、人間関係が上手くいかない
そうして自信を完全になくした僕は、自分の存在価値を他人に認めてもらおうと必死になります。
当時交際し始めた彼女に、ドップリ依存。しかし、
- 見捨てられるのはないか?
- 裏切られるのではないか?
と常に不安になり、ビクビクしていました。
必要以上に、不安を大きくしてしまう発達特性も重なりました。
当然うまくいくはずもなく、フラれてしまいます。
人として否定された気持ちになり、ひどく落ち込みました。
自分はやっぱり認めてもらえない、ダメ人間なのだという思考と結びつけ、グルグル自分を責め続けていたのです。
当時の僕は、自分に対してまるで安心感がなく、自分のことがよく分かっていなかったのです。
就職活動を始めるも、自分の事が分からない
そんな自分がよく分からない状態で、就職活動の時期を迎えました。
しかし、親に言われたとおり、ただ何となく言われた通りに、ここまで過ごしてきた自分。
自己PRもなければ、志望動機もない。
それ以前に、そもそも自分の事がまったく分からない。
他人にばかり合わせ、自分の意志というのも、まったくありません。
そんな状態で社会に出ていく事は、当時の僕にとって、不安と恐怖でしかありませんでした。
当然、就職先が見つかるはずもなく、そのままアルバイトをしながら、フリーターになったのです。
社会に出てないダメな自分を責め続ける
フリーターになったものの、今度は社会に出ていない自分を責めるようになります。
就職できなかった自分は、
- 劣っている存在
- 恥ずかしい存在
だと、自分を責めるようになっていったのです。
周りを見渡せば、友達は立派に社会人として働き始めている。
どんどん社会から取り残されている不安と焦りで、自分を責め続ける毎日。
劣等感はますます、大きくなっていました。
親からの人格否定の言葉に、怒り狂いそうになる
そんなとき、さらに苦しかったのは、幼少の頃から続いていた、親からの人格否定の言葉。
- 就職もまともにできない、ダメ人間が!
- 親の言うことを聞かないからだ!情けない!
情けない自分というのは分かっていましたが、怒りと憎しみが込み上げました。
しだいに怒りと憎しみから、殺意さえ抱いたこともあります。
でも実際は、「なんで親は、こんなに否定の言葉ばかり投げてくるのだろう?」と、とても悲しかったのです。
自分でも、
- なんで僕は、こんなにダメ人間なんだ?
- こんなに価値のない人間なんだ?
と、無意識に自分を責める日が続いていたからです。
結局、親が決めた条件で就職先を探すことを約束に、家に居させてもらえることになりました。
「本当は、就職より挑戦してみたいことがある」という本音は置き去りに・・・。
『親の人生を生きているの?』と言われるも、理解できない
当時の僕は、就職活動の状況や親の性格についても、友人に相談していました。
でも、当時の僕の口グセは、
- 親がやれって言ってるから ~
- 親が反対するから~
と、自分のことなのに、主語がぜんぶ『親』になっているのです。
友人からは「親の人生を生きてるの?」と言われるも、その言葉の意味を本当に理解できませんでした。
親が人生の正解と思い込んでいる僕にとって、友人の方こそ「何を言ってるの?」としか思えなかったのです。
今思えば、恐ろしいことです。
親へのこだわりと執着。
完全に親の洗脳状態になっていました。
初めて正社員として就職。挫折を味わう
その後、やっとの思いで、親の条件を満たす会社へ営業職として就職することができました。
しかし、親との約束を果たせたことで、安心していたのもつかの間。
ここから発達障害(ASD・ADHD)である僕にとっての挫折が待っていました。
コミュニケーション・集団行動ができない
会社組織のなかで、人と上手くコミュニケーションができず、集団行動が苦手だった僕。
たとえば、ひと息つける昼休みに、先輩や上司とランチに行くのが苦痛でたまりません。
会話がズレる。かみ合わないと言われてしまう。
しだいに、気疲れするようになります。
『昼休みくらい、1人になりたい・・』
そんな思いから、ダイエットしていますとウソを言うようになり、ますます会社で孤立ぎみに。
しかし、ひとり公園でお弁当を食べている姿を見られており、ウソをついているとあっさりバレていました。
そんな状況の積み重ねが、ますます僕の評価を落とすことにつながります。
人の話が理解できない
社会人として、初めにぶち当たった壁は、『人の話が理解できない』ということ。
初めは先輩たちが丁寧に仕事を教えてくれたのですが、それでも理解ができなかったのです。
複数人でミーティングをしていると、話が右から左へ話がすり抜けてしまいます。
この頃の僕は、典型的な発達障害にみられる前頭前野の機能の弱さが際立って表に出ていました。
当然、周りからは『理解力のない人間』というレッテルを貼られ、劣等感のカタマリと化す自分。
『もう一度教えてください』と言いたいけれど、劣等感から聞けない。
そのまま話が進んでしまい、最後の最後で『分かりません』。
当然ながら、上司からは、『何でもっと早く言わなかったんだ!』と激怒されます。
そんなパターンをくり返えしては落ち込み、苦しんでいました。
仕事ができない劣等感
僕のサラリーマン生活での初めての仕事は、提案型営業という職種。
しかし、ASD傾向の強い僕にとって、
- 興味のない仕事で、1日300件の電話営業
- 商談では提案パターンが毎回変わる
- マルチタスク(書類関連、アポ、段取り等)に仕事をこなす
というのが、苦痛で苦痛で仕方なかったのです。
それでも当時は、『頑張るべきだ』という思いだけで働いていました。
でも、いつまで経っても、仕事ができるようにはなりません。
人間関係のコミュニケーションも上手くいかず、上司からは、
「君のことは、誰も快く思っていないみたいだよ」
「私が君の立場なら、もう諦めて会社やめてるけどね」
と言われ、ポッキリ心が折れそうになります。
対人不安から手がブルブル震える
会社という組織・集団になじめず、人と話すことに苦手意識が強かった僕は、『対人不安』をかかえるようになりました。
人と話をしているだけなのに、手がブルブル震え出す。
人前でプレゼン中に、手に持っている資料が「パタパタ」と音を立ててしまい、クスクス笑われる。
『どうして手が震えてるの?(笑)』と直接、バカにされてしまったこともありました。
恥ずかしくて、たまらない。
毎回いろんな人に見られるたびに、そんな自分が情けなく、嫌で仕方なかったのです。
グルグル思考でストレスまみれに
劣等感から、休日も仕事のことを考えつづけては、ひどく落ち込んでいました。
- あの時の言動で、上司に嫌われたに違いない
- 周りからバカにされているに違いない
必要以上に被害妄想は大きくなり、完全に劣等感のカタマリでした。
『なんで自分は、仕事ができないのか? 』
『みんなと同じように普通にできないのか?』
そんな自分責めを毎日のグルグル考え続け、周りの顔色をうかがっては、内心いつもビクビクしていました。
入社わずか4ヶ月でクビ宣告
そしてついに、僕は入社わずか4ヶ月でクビを言い渡されます。
4か月経っても、1件の営業契約もとれず、会社にはとってはお荷物の存在だったのです。
でも、ここでASDのプライドの高さが役に立ちます。
「給料ゼロでいいので、このまま働かせてください!」
と社長に直接、説得しにいきました。
今思えば、自分でもこんな行動に出たことに、驚きです。
当時はプライドの高さもあり、何も成果を出せず、人格否定されて終わるのだけは耐えられなかったのです。
障害特性にあった仕事で能力を発揮
社長を説得しに行ったところ、『君のそういう真摯なところは、嫌いじゃないよ』と、何とそのまま雇用してくれることになったのです。
行動することでしか『変化』はない。と実感した出来事でもありました。
ただし、適性のない営業職ではなく、クライアントの問題を解決にあたる『サポート』部署へ異動することに。
幸いなことに、異動先の仕事は、僕の特性に合っていました。
発達障害である僕にとって、その職種への適性は非常に大切な問題だったと、今でも強く思います。
このときから、クライアントの問題に寄り添い、サポートするカウンセラーの性質があったのかもしれません。
認めてもらいたいという強い思い
異動先の仕事では、とにかく周りの人たちに認めてもらいたい。
その一心で、ガムシャラに働きました。
『毎日辞めたい』と思いながらも、週6で働いた結果、年収も入社当初の2倍になりました。
上司や先輩からの評価もあがっていき、20代の社会人として、やっと人並みの給料を得られるようになったのです。
しかし、「自分軸のない」苦しみは続く
少しずつですが、職場で認めてもらえ始めたおかげで、発達障害によるコミュニケーションの悩みも減っていきました。
入社当初に比べたら、ビックリするくらい過ごしやすい会社になっていったのです。
ただ、発達障害の問題が改善されつつあっても、もう一つの息苦しさは続いていました。
それは、
自分の人生を生きてない、いつも誰かの期待に応える人生だったからです。
周りからは認められたい。でも息苦しい・・・。
そんな生きづらさは、相変わらず、ずっと付きまといました。
周りから認めてもらうことでしか、自分を肯定できないのです。
当然といえば、当然かもしれません。
しかし、当時はそのことに、まったく気付いていませんでした。
何か息苦しい・・。いやでも、正しい道を進んでるハズ・・。
そんな思いのくり返しでした。
毒親の洗脳に気付く
自分の漠然とした生きづらさについて、考え続けていました。
そんなある日、突然分かったことがありました。
それは、
『親でも間違えることはある』という当たり前の事実。
それまで僕はずっと、『親の言うことが人生の正解』という強烈なこだわりがありました。
この頃にはもう、態度では親に対して「間違ってるだろ!」と、猛反発するようになっていたにも関わらず、です。
矛盾していて、おかしいですよね?
まさか親に反発をくり返している自分が、実は無意識では『親が正解』と思い込んでいるだなんて。
自分でも知らず知らずのうちに、親に言われた通りでないと、自分は生きていけないという思考パターンに陥っていたのです。
幼少期のうちに、無意識に身体感覚レベルにまで染み込んでいた思い込み(禁止ルール)には、なかなか自分でも気付けません。
しかし、気付いたときには、自分でも大きな衝撃を受けました。
大人になった今でも、洗脳状態だったことに、ようやく気付けた瞬間でもあったのです。
以前に言われた『親の為に生きてるの?』と言われた意味が、このとき、ようやく本当の意味(身体の感覚レベル)で理解できたのです。
しかし結局、自分は親の期待に応えるため、会社の期待に応えるため、頑張ってきただけ。
それが分かったある日から、大きな脱力感に襲われるようになりました。
これ以上、会社で頑張り続けることが、嫌でたまらなかったのでしょう。
『今まで、何のために頑張ってきたのだろう』
突然自分が分からなくなり、激しいむなしさに襲われるようになりました。
もう、すべてがどうでもよく思えたのです。
自分軸で生きる方法を考えはじめる
一方で、しばらく期間が空いてからは、親が必ずしも正しいわけじゃないと気付けて良かったと思えるようになっていきました。
そのとき、やっと親から解放され、自由になれた気がしたのです。
でも、それは大きな錯覚でした。
それは、親の指示に従いさえしなければ、『自分軸で生きていることになる』と錯覚していたからです。
つまり、
- 親の支配に、ただ気付くこと
- 親の呪縛から、完全に解放されること
両者は似ているようで、まったく別物であることに、このときは気付けていなかったのです。
誘いに乗って転職するも、他人軸からは抜け出せない
ちょうどそのころ、先輩から『ウチの会社に来て欲しい』と転職の誘いがありました。
転職の決定打になったのは、先輩の「お前の人生の責任は俺が持ってやる」という一言。
その一言がキッカケになり、悩んだ末に転職。
やっと、親の判断ではなく自分で決断ができた!
心のどこかで満足していました。
しかし、それは大きな勘違いでした。
結局、誰かが責任を持ってくれないと決断できなかった僕。
決断の軸が、親から先輩へスライドしただけで、結局のところ、他人軸で決断していることに変わりはなかったのです。
その代償は、後で僕にはね返ってくることになります。
転職先で、発達障害の特性に苦しむ
さらに、転職先では新しい環境によりいっそう挫折することになります。
再び劣等感に苦しむことに
転職先では、優秀な社員が多かったため、僕は付いていくことができません。
- コミュニケーションが抜群に上手い人
- 行動力が並み外れている人
- 頭が切れて、アイデア豊富な人
そんな優秀な社員と自分をくらべてしまい、どんどん自信を失っていきました。
周りからもバカにされるようになり、自分責めの毎日に逆戻りすることに。
いわゆる「普通」が分からない
前の会社では長く勤めていたため、単独で好きなように仕事をしても文句は言われなくなっていました。
でも、新しい職場では、一般社員としてイチからのスタートです。
しかし、いわゆる「普通」とされる、
- 周りの空気を読んで行動する
- 集団の中での円滑なコミュニケーション
- 自分で仕事をつくっていく積極性
が、僕にはなかったのです。
そのため、普通からズレていると怒られることが多かったのです。
『普通はもっと空気を読んで~』
『普通はもっと積極的に~』
『普通さぁ、こういう時ってさ~』
など、と言われることが多く、普通、普通、のオンパレード。
『普通』って、一体なんなの?
みんな一体どこで、その『普通』を習ったの?
教科書にも載っていません。
僕には普通がますます分からなくなっていきました。
リストラされ、ニート・引きこもりに
しかし、その会社もあるキッカケから、業績が落ち込んでいくことに。
お荷物社員は片っ端から、リストラ対象です。
当然、僕はその対象となり、リストラ。
すっかり自信を失った僕は、そのまましばらく何もやる気がおきませんでした。
- 『やっぱり自分はダメ人間だった』
- 『自分が分からない』
- 『人生に失敗した』
前職でのプライドもズタズタに引き裂かれ、どん底状態に。
仕事もできない、人生の選択もできない自分は無価値な人間。
ASDの思い込みの強さから、グルグルと毎日考え続けてしまい、しだいに『消えたい』『死にたい』と考えるようになりました。
ニート・ひきこもりの状態が、1年近くつづきました。
『社会に一番必要のないクズ』と言われる
ニート・引きこもりになった僕がやる気を出すよう、何度も渇を入れてくれた友人がいました。
職場を紹介すると面接の段取りをしてくれ、『頑張っていれば、人生は開けるから!』
と、熱い想いで何度も叱ってくれたのです。
ですが、友人の言うように頑張らなければならないと考えつつも、気持ちがついていきません。
友人の期待には、応えたい・・・。
それでも、むしろ叱られるほどに、頑張ろうと思えない自分はダメ人間なんだと言われているようで、苦しくてたまらなかったのです。
結局、友人は頑張ろうとする意欲がみえない僕に対し、
「お前は、社会に1番必要のないクズ中のクズ人間!」
と怒りが爆発。
僕はショックのあまり、その言葉がトラウマになってしまいました。
ムリヤリ再就職。重度に近い『うつ病』へ
結局、友人が言うように、頑張らなければ!と自分を奮い立たせ、ムリヤリ再就職しました。
しかし、これが良くなかったです。
業界も職種も選ばず、ただの強制的な就職。
心と体は、まったく追いついてきません。
カラ元気で、新しい職場に適応しようとしながら、仕事をこなす毎日。
当然ですが、そんな毎日は長くつづきません。
発達障害の方に多い、いわゆる過剰適応の状態です。
過剰適応では、うつ病などの二次障害を引き起こします。
当然、僕もうつ傾向は続いていました。
徐々に仕事のパフォーマンスは落ち始め、ある時、上司から陰口たたかれていることを知ります。
- 『定時になったら、帰ろうとする』
- 『積極性や意欲が足りない』
- 『空気を読もうとしない』
など。
そんな陰口を言われていることを、第三者から聞くたびに、職場へいくのがますます億劫になっていきました。
さらに、この最悪なタイミングで、発達障害の特性も表に出てしまい、社内での評価はさらにガタ落ち。
その結果、病院から下されたのは重度に近い『うつ病』の診断。
病院からは休職することを勧められましたが、僕はそのまま通勤することを選びます。
仕事を休んだら、さらに陰口がエスカレートする方が恐かったのです。
悪循環ですね。
さらに、発達障害(ASD・ADHD)と診断がおりる
自分は普通の人より、考え方がズレている?
そんな思いから病院で診断を受け、自分が『発達障害(ASD・ADHD)』だと分かりました。
『今までの生きづらさの原因はコレだったんだ・・・』
ショックも大きかったのですが、心のどこかで妙に納得感もありました。
ようやく見え始めた『生きづらさの正体』
今までの生きづらさは、発達障害が根本になっていたと気付きました。
さらにここで、発達障害である自分の特性を理解して受け入れ、自分軸で生きれるようにならないと、生きづらさは消えないということに気付きました。
自分の生きづらさを改善することに成功
ようやく方向性が見えたことで、自分の中で『改善していきたい』という気持ちが芽生えるのを感じました。
でも、どうしたらいいのだろう?
原因は分かっても、生きづらさが改善されるわけではありません。
ここから僕の、自分に対する『生きづらさ改善プログラム』は始動しました。
食事から『うつ病』が寛解
まずは、手始めにうつ病を改善しないと、自分の生きづらさとは向き合えない。
そう考え、必要な栄養素を自分で調べ上げ、食生活をガラっと変えました。
自分を実験台に色んな食事を試していったところ、効果を実感できる食事メソッドを確立。
3ヶ月を過ぎた頃には改善の兆しが見えはじめました。
その結果、うつ病であることを会社に知られることもなく、改善に向かうことができたのです。
カウンセリングと出会い、『生きづらさ』がウソのように改善
またこのタイミングで、カウンセリングを受ける機会もあり、自分を客観視できるようになりました。
客観性が進むことで、ネガティブ感情に支配される時間が圧倒的に減ります。
またASDの特性が強い特性のせいで、
- 親への感情が癒せていなかったこと
- 認知の偏りが強かったこと
- 自分責めのクセがあったこと
- 反芻思考で不安を大きくしていたこと
他にも様々な自分の生きづらさの正体がハッキリ明確になりました。
さらに、自分の悩みやクセが整理されることで、対処方法も分かり、生きづらさがウソのように改善されていったのです。
良いところも、悪いところも含めての自分。
そう思えたとき、初めて自分の人生を選択できる感覚が分かってきたのです。
カウンセリングを通して、同じように悩む人の役に立ちたい
その後の僕は、発達障害や食事療法、カウンセリングについてたくさん学び、お客様の悩みに向き合うカウンセラーとして起業することにしました。
他の誰でもない、僕が自分軸で決めた選択『カウンセラー』という職業。
僕自身の経験にあるように、発達障害とアダルトチルドレンの『生きづらさ』を抱えている人の悩みに真摯に向き合いたい。
そんな『想い』のもと、活動しています。
次はカウンセリングで、あなたとお話ができるのを心から楽しみにお待ちしています。
ここまで僕の長いプロフィールを読んでいただき、本当にありがとうございます。
宮田